江戸幕府の大政奉還(1867年10月14日)から25日後の12月9日に王政復古の大号令が発せられ、薩摩、長州が中心となり新政府が誕生。
徳川将軍慶喜、会津藩(京都守護職)、桑名藩(京都所司代)を中心とした旧幕府軍は慶応4年正月2日に京都の鳥羽伏見の戦いが新政府との間で始まりました。
これが戊辰戦争ので翌年まで続きました。海津藩の戦いは歴史上でも有名ですが、実は桑名藩藩主松平定敬も藩の中で二分した反恭順の行動で最後の地函館まで行き戦いました。地元桑名では謝罪恭順し、城を無血開城したので、桑名の地は戦火に見舞われることなく、明治の桑名の復興に向かうことが出来ました。最後まで藩、藩主と一体化し徹底抗戦した会津藩と違い、桑名藩の京都所司代職、戊辰戦争のときの最後まで戦った藩主松平定敬の知名度は会津藩松平容保とはくらべものにならないですね.でもそのおかげで、桑名の町が大打撃を受けず、たいへん助かったことだと思います。最近桑名藩の幕末、戊辰戦争の時の役割が少し論じられるようになったかなと思います。特に桑名にお住まいの方はもっと知っていただけけたらと思っています。
幕末、戊辰戦争、の話を書くと長くなりますのと、くどくなりますのでここら辺にして………
なお歴史に興味のある方は来る10月21日から11月26日まで桑名市博物館で 「幕末維新と桑名藩 ~一会桑の軌跡~」 の特別企画をされますので、是非行かれてください。
当店にもこの時代の背景をかんがみる証文の一部があります。
ここからは全くの素人考えですが………
ということで、今年は戊辰戦争開戦150年、幕末の桑名の町は、徳川家茂が1863年に家光以来二百数十年ぶりの上洛、またその前年の1862年にも松平定敬の兄、会津藩藩主の松平容保の京都守護職就任等が有り、超巨大大名行列が東海道桑名宿を通り、もちろん桑名の町は大いにうるおったのではないかと思われますが、いかがでしょう?時の徳川将軍徳川家茂、会津藩主松平容保が桑名に来るとなると、生半可な接待ではなかったと思われます。また徳川将軍総勢3000人、会津藩総勢1500人ともいわれてる大名行列は、桑名に相当な経済効果があったのかなと思います。少なくとも町の商人は米、酒、食料、刀、鍔、鞘、着物、裃、和装小物、海運、宿、等あらゆるものが動いたと思われます。
当時の桑名藩の武士からの買い付け証文が当店にもかろうじて一部残っていましたがこんな感じでした。ただそのあと桑名藩松平定敬も京都所司代に就くため、たくさんの桑名藩の武士たちが出かけたことでしょう。藩の財政は決しては豊かではなかったおり、大変な出費だったのでしょうね。そこのところは「桑名日記」「柏崎日記」で明らかですが当店の代金がすべて回収されたのかどうかは定かではありません。
ほんの 一部ですがここの文面からかろうじてその歴史背景と店のかかわりが見ることが出来ました。
内容文章は個人のお名前が入っていますので割愛いたします。